TathāNote -にょのーと-

手帳沼のほとりで踊り狂うにょの

自尊心と自己肯定感と自分の機嫌の取り方。

たまたま、本当にたまたま、立て続けに
「自己肯定感とはなんぞや」と「自分の機嫌は自分でとる」のツイートが2日連続で目に入って自分のことを考えていた。

目次的な何か

まず、私は自尊心が低い。

自尊心とは

他人からの評価ではなく、自分が自分をどう思うか、感じるかである。
(中略)
自尊心は、自分が有能であるといういわゆる自信と、自分に価値があるという自尊の2つの要素から成り立っている。
自尊心 - Wikipedia

とのこと。何言ってるか分からん。

「自分が自分を」の部分が大事なのだろうけど、自分の有能さと価値の部分は「他人からの・他人との・他人への」がどうしても関わってくる。

私は、頭が悪いし、運動もできないし、ブサイクだし、人付き合いは幼少時から苦手。学生生活は常に5軍。生まれ持った身体的特徴もある。私の感覚が人とズレているのか理解されない場面も多かった。人と同じことができないという感覚も多かった。

あらゆる面において人よりも劣っている。

自分に自信なんてないし、ましてや価値があるとは到底思えない。なぜいつまでも生きているのだろう?早く死ねばいいのに。くらいの気持ちがある。

群れをなし優劣がつく学生生活

例え何軍であろうと学生生活は群れを成し、成績だったり人だったり他者比較の評価がつく場である。
いわゆる「変な人」の枠に入ってしまうと、どんな扱いになるか分からない恐怖もあり精一杯取り繕っていた。
(隠しきれてはいない。ドラマや漫画からくる妄想の可能性も高い。)

人付き合いが下手くそすぎて苦手で、他人と競い合うことが好きではないのに否が応でも優劣がつく。ゆっくりと劣等感を強めて根を張り巡らせていったのでした。

当時は全く意識していなかったけど、苦痛だったのか学生時代の記憶は朧げ。エピソードみたいなものは語れないのである。

つぎに、私は自己肯定感が高い。

正確に言うと、社会人になってから「高くなった」。
ガッチリと根を張る劣等感に加え、20代中頃まではPMSの影響も酷くて些細なことで卑下したり、無価値感を感じることが多かった。

ただ、"普通"であらねばならぬ学生生活と違い、わざわざ群れる必要はないし、目に見える形での他者比較も少なく、そのままの自分でいても笑われることが少なかった。
(職種や職場による。私は運が良かった。)

私の自己肯定感が爆上げされた方法

1番効果があったのは、その日できたこと・褒めポイントを箇条書きで書くだけの『ホメできノート』だったと思う。

書いていたことは本当にたいしたことなくて、
「洗濯した、ご飯を作った、書類を書いた、ゴミを捨てた、あれやった、これやった、仕事でこれ褒められた」とかとか。独り身なので必然的に家事が多め。
昨日よりできる事を増やそう!とか、違うところを掃除して書いちゃうぞ〜!とか、できるときは前向きに次の行動へと繋がっていく。

何もできないとき、メンタル落ちのときは、
「起きた、仕事に行った、ご飯を食べた、ウンコした」の4項目をよく書いてました。「呼吸した」を書いたこともあります。

「何もできていない」と言えばそうなんだけど、何かしら記入されている状態は視覚的に「できている」という錯覚を与えてくれました。このとき私は「生きてる・迷惑はかけていない・大丈夫」とよく唱えてました。

それまでの継続で「できる時はきちんと行動できる」という実績と自信を積み上げることができたのが良かったのだと思います。

できる日を知っているから、ダメな日も受け止めることができる。極端に卑下することも、責めすぎることも徐々に減っていきました。
「もう大丈夫」と思えたから3ヶ月ほどで書くのをやめました。

「機嫌を取る」に良いイメージがない

ありのままの自分を受け止め自己肯定はできるが、卑下することが減った今もなお、自分に価値があるとは思えず自尊心は低い。

「機嫌を取る」が「おべっかを使う」に近くて、他人に気に入られようと媚びへつらうイメージがある。
私は相手が社長であろうとも、そういうことをしないのをモットーに働いている。気に入られたくて行動するのではなくて、私が相手を好きだから行動をする。
そこに、ご機嫌取りの気持ちは少ない。

機嫌を取るそのものの「人の気分を慰めやわらげようとする」も、他人の機微な変化に気付きにくい私はなかなか出来ないのです。

価値ある人間にすらしないことを、価値ない自分自身へと繋げることができないのかもしれないです。

自分の機嫌を取る必要がない

2016年、9年付き合っていた彼と別れた。別れた当初は寂しさや苦しさもあったが、学生時代の暗黒期から付き合っていたので「パブリックイメージの押さえつけている自分」から開放された感覚がありました。
私の人生、どれほど他人の顔色を伺い、他人に合わせて、自分で自分を蔑ろにしていたのだろうか。

そこから長い時間をかけて「自分が嫌だと思うこと」「不機嫌になりやすいこと」というのを改善して、家族を含めてリアルでの他人との付き合いを最小限にしたのでした。

その結果ストレスが激的に減り、今はご機嫌に過ごしている事の方が多いです。
「機嫌を取るため」と銘を打たず「私がそれをしたいからする。そこに理由なんていらない」とも思っています。

だから「自分の機嫌は自分で取る」の言葉が多く見られるようになったときに、私の中でピンときていなかったのです。

他人の匂いを感じるかどうか

自己肯定は、良いも悪いもそこに登場するのは自分だけである。
自尊は、他人からの評価や受けた扱い、比較などの優劣で形成されやすい。
機嫌を取るも、どうにも他人の匂いを感じる。

自尊心の部分でも述べたけど、他人と比較したときに私は圧倒的に劣っている。その現実を真正面から受け止めることができないから、他人の匂いを感じる時に猛烈な反発心とともにダッシュで逃げるのです。

だからと言って自分自身を蔑ろにしていい理由にはならない。だから私は「ご自愛ください」の方が好きです。